一冊の本が、宝だった時代
あなたの手元には、おそらく、何冊もの本があるでしょう。数百円で文庫本が買え、図書館では無料で借りられ、スマホでは無数のテキストが読める。しかし、この「本が身近にある」という状態は、人類の歴史から見れば、ごく最近の、驚くべき達成です。このコースでは、本と読書の歴史を辿ります。本という「知の器」が、どう生まれ、どう世界を変え、そして今どう変わりつつあるのか。それは、知識と社会の関係の歴史そのものです。まず、印刷以前——一冊の本が、宝であった時代から、始めましょう。
手で写す、ということ
文字の発明によって、人類は、知識を記録できるようになりました。しかし、記録できることと、それを広められることは、別です。印刷技術が普及する以前、本を作る方法は、一つしかありませんでした。一冊ずつ、人の手で、書き写すのです。これを、写本と言います。
一冊の本を写すことが、どれほど大変か、想像してみてください。
- 長い書物なら、書き写すのに、数ヶ月から数年かかることもあった
- 写す人(写字生)には、読み書きの高い能力が必要だった
- 紙(あるいは羊皮紙など)そのものも、高価だった
その結果、本は、極めて高価で、希少なものになりました。一冊の本が、家一軒に相当するほどの価値を持つことさえ、ありました。本は、今のような日用品ではなく、宝物だったのです。だから、本は鎖で机につながれ、厳重に守られることもありました。この「本の希少さ」が、その時代の知のあり方を、根本から規定していました。
知識は、力だった——そして、偏っていた
本が希少だということは、知識へのアクセスが、極端に偏っていたということです。
- 本は、修道院、宮廷、限られた図書館など、特定の場所に集中していた
- 読み書きができるのは、聖職者や、一部の富裕層など、ごく限られた人々だけだった
- 大多数の人々は、文字が読めず、本に触れる機会も、ほとんどなかった
この状況は、前に女性史で見た「記録する側の偏り」とも、深く関わります。知識が、一部の場所と階層に独占されているとき、知識を持つことは、そのまま権威と力に結びつきます。文字を読める者だけが、聖典を解釈し、法を知り、記録を残せる。知の独占は、権力の構造と、一体だったのです。
逆に言えば、大多数の人々にとって、知識は、口伝え——人から人へ、声で伝えられるもの——でした。物語や神話は、語り継がれ、知恵は、生活の中で伝えられました。書物の知と、口伝えの知。この二つの世界が、長く並存していたのです。
「知のあり方」は、メディアで決まる
印刷以前の世界を知ることの意義は、単なる昔話ではありません。それは、知識のあり方が、それを運ぶメディア(媒体)の性質によって、根本から規定される、という洞察です。
- 本が希少なら、知識は集中し、独占される
- 本が安く大量になれば、知識は、広く行き渡る(次のレッスンの印刷革命)
- そして、デジタルになれば——(後のレッスンで見ます)
この視点は、前に情報理論やメディアで学んだことと、つながります。知識そのものだけでなく、知識がどう記録され、複製され、流通するかが、社会の知のあり方を、そして権力のあり方を、決めるのです。この視点を持って、次のレッスンで、人類史上最大級のメディア革命——印刷革命を見ましょう。
ニュースで使う視点
知識へのアクセス、教育の格差、情報の独占に関わるニュースに触れるときは、「知識は、誰に、どれだけ開かれているか」という、本の歴史が教える問いを思い出してみてください。知のアクセスの偏りは、形を変えて、現代にも存在します。次のレッスンでは、その偏りを打ち破った、印刷革命を見ます。