「見る」のではなく、「動かす」
前レッスンで、遊びが人間の本質的な営みであることを見ました。その遊びの、現代における最大の形が、ビデオゲームです。ゲームは今や、映画を超える規模の産業であり、世界中の人々の日常です。しかし、ゲームは、しばしば「子どもの娯楽」「暇つぶし」と軽く見られてきました。このレッスンでは、ゲームを、映画や小説と並ぶ一つのメディア(表現形式)として、まじめに読み解きます。ゲームには、他のどのメディアにもない、独自の表現力があるのです。その核心は、一つの言葉に集約されます——相互作用性(インタラクティブ性)です。
相互作用性——ゲームだけが持つもの
映画、小説、音楽、演劇——これらのメディアと、ゲームの、決定的な違いは何でしょうか。それは、受け手の関わり方です。
- 映画や小説の受け手は、物語を「見る・読む」。展開は、作り手が決めたとおりに進む。受け手は、観客です
- ゲームのプレイヤーは、「操作する」。自分の選択と行動が、世界に働きかけ、展開に影響する。プレイヤーは、参加者です
この、「受け手が操作によって参加し、その行動が結果に影響する」性質を、相互作用性(インタラクティブ性)と言います。これこそ、ゲームというメディアの本質です。
同じ「物語」でも、体験の質が、根本から変わります。映画の主人公がピンチに陥るとき、観客は、ハラハラして見守ります。しかし、ゲームでは、そのピンチを切り抜けるのは、あなた自身です。あなたが判断し、操作し、失敗すれば、その結果を引き受ける。この「自分ごと」としての体験の強度は、前にVRで見た没入感とも通じる、ゲームならではのものです。遊びの構造——ルールの中での自発的な行動——が、デジタル技術によって、豊かな物語世界と結びついた。それが、ビデオゲームなのです。
「体験させる」という表現力
相互作用性は、ゲームに、独自の表現力を与えます。それは、「体験させる」力です。映画や小説は、感情や思想を「伝える」ことに長けています。ゲームは、それを「体験させる」ことができるのです。
- 選択の重み:物語の分岐点で、プレイヤー自身が選択を迫られる。「どちらを助けるか」を、観客として見るのと、自分で選ぶのとでは、その重みが、まったく違います
- 責任と結果:自分の選択の結果を、自分で引き受ける。後悔も、達成も、当事者の実感として迫ってくる
- 達成と成長:困難に挑み、失敗を重ね、ついに乗り越える。この達成の体験は、見るだけでは得られません。ゲームは、プレイヤー自身に「英雄の旅」を歩ませるのです
- 他者の立場を、生きる:誰かの人生を「操作する」ことは、その人の立場を、内側から体験することです。文学が想像力で行うことを、ゲームは、参加によって行います
この「体験させる」力によって、ゲームは、単なる娯楽を超えた、独自の芸術的・文化的表現になりえます。実際、深い物語や、社会的なテーマ、美しい世界を持つ作品が、数多く生まれています。ゲームは、映画や文学の「下位互換」ではなく、それらにできないことができる、別のメディアなのです。
メディアとして、成熟していく
歴史を振り返ると、新しいメディアは、いつも最初、軽く見られてきました。小説も、映画も、マンガも、登場した当初は「低俗な娯楽」とされ、やがて、独自の表現として成熟し、文化として認められていきました。ゲームも、同じ道を歩んでいます。
- 誕生から数十年で、表現は、驚くほど深化した
- 世界中に、作り手と、批評と、文化が育っている
- 教育や医療への応用も、広がっている
ゲームを「たかがゲーム」と切り捨てるのは、かつて映画や小説を切り捨てたのと同じ、新しいメディアへの無理解かもしれません。もちろん、ゲームには、依存などの課題もあります(後のレッスンで見ます)。しかし、まず、ゲームというメディアの独自の力を、正しく理解すること——それが、この巨大な現代文化を、教養として読み解く出発点なのです。
ニュースで使う視点
ゲーム作品の話題、ゲームと表現、ゲームの文化的評価に関わるニュースに触れるときは、「ゲームは、相互作用性という独自の力を持つメディアだ」という視点を持ってみてください。「たかがゲーム」でも「ただの娯楽」でもなく、独自の表現形式として見る目が、この巨大な現代文化を、深く理解する鍵になります。次のレッスンでは、ゲームの産業としての姿を見ます。