「遊び」を、まじめに考える
ゲームについて考えるコースを、意外なところから始めましょう。「遊び」とは、何か。遊びは、しばしば「無駄な時間」「まじめの反対」と見なされます。しかし、考えてみてください。遊びは、生存に直接必要ないのに、あらゆる時代、あらゆる文化の人間が、普遍的に行っている営みです。子どもは、教わらなくても遊びます。大人も、形を変えて、遊び続けます。この普遍性は、遊びが、人間にとって、何か本質的なものであることを、示唆しています。ビデオゲームという現代のメディアを理解するためにも、まず、その根っこにある「遊び」を、まじめに考えることから始めます。
ホモ・ルーデンス——遊ぶ人
遊びについての、最も有名な考察が、思想家ホイジンガの「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」という言葉です。人間は「ホモ・サピエンス(知恵ある人)」と呼ばれますが、ホイジンガは、人間の本質を、遊ぶことに見ました。そして、大胆な主張をしました。文化は、遊びの中から生まれた、と。
どういうことでしょうか。遊びの中には、文化の原型となる要素が、詰まっています。
- ルールを作り、従う:遊びには、ルールがあります。「こう遊ぶ」という約束事を作り、皆でそれに従う。これは、法や制度の原型とも言えます
- 役を演じる:ごっこ遊びで、別の誰かになる。これは、演劇の原型です
- 競い合う:ルールの中で、力や技を競う。これは、スポーツの原型です
- 飾り、歌い、踊る:祭りや儀礼、芸術にも、遊びの精神が流れています
つまり、儀礼、芸術、スポーツ、演劇、詩——文化の多くが、遊びという土壌から育った、というのです。遊びは、文化の「おまけ」ではなく、文化の「源泉」だった。この視点に立つと、遊びを「無駄」と切り捨てることが、いかに浅いかが、分かります。
遊びの、独特の構造
遊びには、他の活動にはない、独特の構造があります。その特徴を、整理してみましょう。
- 自発的である:遊びは、自分から、やりたくてやるものです。強制された遊びは、もはや遊びではありません
- 日常から、区切られている:遊びは、日常の時間と空間から、区切られた「特別な枠」の中で行われます。鬼ごっこの間だけ、友だちは「鬼」になる。ゲームの盤上だけ、独自の世界が成立する。前に観光で見た「日常と非日常」の構造です
- 独自のルールに、従う:遊びの世界には、遊びのルールがある。現実の法とは別の、しかしその枠内では絶対の、約束事
- それ自体が、目的である:遊びは、何かのための手段ではありません。楽しいから、遊ぶ。この「無目的の楽しみ」こそ、遊びの核心です
この構造——日常から区切られた枠の中で、自発的に、ルールに従って楽しむ——は、そのまま、ゲームの構造でもあります。ビデオゲームは、この人類の古い営みの、最新の形なのです。
遊びを、尊重するということ
遊びの意味を理解すると、現代社会への、大切な視点が得られます。効率と生産性を重んじる現代では、遊びは、しばしば「時間の無駄」と見なされがちです。しかし——
「役に立つか」だけで、すべてを測る社会は、実は、文化の源泉を、枯らしてしまうかもしれません。遊びを、人間の本質的な営みとして尊重すること——それは、人間らしい豊かさを守ることでもあるのです。この土台の上で、次のレッスンから、現代の遊びの巨大な形——ビデオゲームを見ていきましょう。
ニュースで使う視点
遊び、余暇、レクリエーション、子どもの遊び場に関わるニュースに触れるときは、「遊びは、無駄ではなく、人間と文化の本質的な営みだ」という視点を思い出してみてください。遊びの価値を理解することは、効率一辺倒ではない、豊かな社会を考える土台になります。次のレッスンでは、ビデオゲームという、遊びの現代の形を見ます。