「美しい」では言い表せない感動
前レッスンで「美」を考えました。しかし、私たちが心を打たれる経験には、「美しい」という言葉では言い表せないものがあります。荒れ狂う嵐の海、雷鳴とどろく空、天を突く高山、満天の星空、広大な宇宙——これらに感動するとき、私たちは「かわいい」「優美だ」とは感じません。むしろ、圧倒され、畏怖し、それでいて心が高揚する。この独特の感覚を、美学は崇高(sublime)と呼びます。美とは別の、もう一つの美的経験です。
美と崇高の違い
美が、調和、均整、優美さといった、心地よく、包み込むような感覚だとすれば、崇高は、それとは対照的です。崇高は、人間を圧倒し、畏怖させる、巨大さや力強さに触れたときの感動です。
- 美:バラの花、優美な旋律、整った庭園——調和のとれた、心を穏やかにする美しさ
- 崇高:荒れ狂う海、そびえる山脈、無限に広がる星空、宇宙の広大さ——人間の尺度を超えた、圧倒的なもの
美が私たちを心地よく包むのに対し、崇高は私たちを圧倒し、自分の小ささを感じさせます。しかし、それは不快ではなく、むしろ深い感動なのです。哲学者カントやバークは、この崇高を、美とは区別される、独立した美的経験として論じました。
恐怖が、感動に変わる逆説
崇高の最も興味深い点は、恐怖や畏怖を伴いながら、感動であるという逆説です。荒れ狂う自然は、本来なら恐ろしいものです。それなのに、なぜ私たちは、それに感動するのでしょうか。
鍵は、安全な立場から、圧倒的なものに向き合うことにあります。嵐の海を、安全な陸から眺める。巨大な自然の力に畏怖しつつ、それに直接飲み込まれてはいない。すると、恐怖が、畏敬の念や高揚へと転じるのです。さらにカントは、崇高の経験には、その巨大さを心で捉えられる自分を意識する契機があると論じました。無限の宇宙を前に、自分の身体は小さくても、その無限を思考し、受け止められる精神の大きさを感じる。だから崇高は、人間を圧倒すると同時に、人間の精神の偉大さをも感じさせる、複雑な経験なのです。
崇高と、現代の私たち
崇高の感覚は、現代の私たちにも生きています。宇宙の映像に息をのむとき、雄大な自然に圧倒されるとき、歴史の壮大さや科学が明かす世界の巨大さに眩暈を覚えるとき——私たちは崇高を経験しています。日本の美意識にある、自然への畏敬の念とも、どこかで通じています。
崇高の経験は、私たちに、大切なことを教えてくれます。人間は、世界のすべてを支配し、理解し尽くせるわけではない。人間を超えた、圧倒的なものが存在する。その前で、畏怖し、謙虚になる。しかし同時に、その圧倒的なものを、心で受け止め、感動できる。この「圧倒されつつ、感動する」経験は、科学が明かす世界の広大さと謎や、複雑さへの畏敬にも通じる、人間ならではの、豊かな感受性なのです。
ニュースで使う視点
崇高は、直接ニュースになりませんが、自然災害の圧倒的な力、宇宙の探査、雄大な自然の保護——こうした話題に触れるとき、「美とは違う、崇高という感動」の視点を持つと、人間と、人間を超えたものとの関係を、より深く感じられます。次のレッスンでは、美学の重要な問い——芸術と美は同じかを考えます。