泰平の世が、思想を育てた
前レッスンまでで、古代・中世の日本思想を見ました。このレッスンでは、江戸時代の思想に注目します。戦乱の時代が終わり、二百年以上の平和が続いた江戸時代は、実は、日本思想が最も豊かに花開いた時代の一つでした。平和で安定した社会の中で、人々は、学問や思想を深める余裕を得ました。その中心にあったのが、儒学と、それへの反発から生まれた国学です。この二つの思想は、現代日本人の価値観にも、深く影響を与えています。
儒学——秩序と道徳の思想
江戸時代に、最も重んじられた思想が、儒学、とりわけ朱子学でした。前に東洋思想で学んだように、儒学は、中国生まれの思想で、秩序と道徳を重んじます。なぜ、江戸の日本で、これほど重んじられたのでしょうか。
理由は、江戸時代の社会の必要に、儒学がよく合ったからです。戦国の争乱が終わり、武士が治める平和な社会が生まれました。この社会を、安定して保つには、秩序が必要です。そして儒学は——
- 身分の秩序を重んじる。士農工商といった身分の別、上下の関係を、社会の基本とする
- 上下関係における道徳を説く。君主への忠、親への孝、目上への敬い
- 個人の修養(自分を磨くこと)を、重んじる
こうした儒学の教えは、平和な社会の秩序を保ち、武士が治める体制を、思想的に支えるのに、うってつけでした。とりわけ、戦う必要がなくなった武士たちは、儒学を学び、「武士とは何か」「どう生きるべきか」という、武士の倫理を練り上げていきました。「武士道」と呼ばれる倫理観の多くも、この時代に、儒学の影響を受けて、形作られたものです。忠義、名誉、自己抑制といった価値観は、現代日本人の道徳意識にも、影を落としています。
国学——日本の「本来」を探して
儒学が広まる一方で、それへの反発から、まったく異なる思想が生まれました。それが、国学です。国学者たちは、こう問いました。「儒教も仏教も、外来の思想ではないか。それらが入る前の、日本本来の心とは、どんなものだったのか」。
国学は、この問いに答えるため、日本の古典——古事記や万葉集といった、古い時代の書物——を、徹底的に研究しました。外来思想の影響を取り除いて、日本人が本来持っていた、素朴で純粋な心や価値観を、明らかにしようとしたのです。
- 儒教的な、堅苦しい道徳や理屈よりも、素直な心の動き、自然な感情を大切にする
- 古代の日本人の、ありのままの感じ方に、価値を見出す
この国学の営みは、日本人が、「自分たちとは何者か」を、自覚的に問い直す、大きなきっかけになりました。前に女性史や日本思想で見た、「自分の立つ足場を知る」営みの、江戸版とも言えます。ただし、この「日本本来のもの」を探す動きは、後に、近代のナショナリズムと結びついていく面もありました。この点は、光と影の両面から、冷静に見る必要があります。
多様に花開いた、江戸の思想
儒学と国学だけでなく、江戸時代には、実に多様な思想が花開きました。商人の道徳を説く思想、実用的な学問、西洋の学問を学ぶ蘭学など、平和な社会の中で、様々な知が育ちました。江戸時代は、「停滞した封建社会」というイメージで語られることもありますが、思想の面では、極めて豊かで、活力に満ちた時代だったのです。
そして、この江戸時代に育まれた思想の蓄積が、次の時代——近代への、大きな土台となりました。日本が、近代化に際して、西洋思想を比較的速やかに受け入れ、消化できた背景には、江戸時代に培われた、豊かな思想的な素地があったのです。江戸の思想を知ることは、現代日本の価値観の、深い源流を知ることなのです。
ニュースで使う視点
日本人の道徳観、勤勉さ、「日本らしさ」をめぐる議論、伝統的な価値観に触れるときは、「これは、儒学や国学といった江戸の思想と、どうつながるか」を考えてみてください。江戸思想の視点は、現代日本人の価値観の源流を、歴史的に理解する力になります。次の最終レッスンでは、西洋との出会いがもたらした、近代日本の思想を見ます。