量子がもたらす、暗号の攻防
前レッスンで、量子コンピュータは「特定の問題」が得意だと学びました。その特定の問題の中に、社会を揺るがしかねないものがあります。暗号を支える計算です。量子コンピュータは、現代のデジタル社会の信頼を支える暗号の一部にとって、将来の脅威となりえます。しかし同時に、量子は、新しい守りの盾ももたらします。この攻防——量子と暗号の関係——は、量子技術が「なぜ国家的な重要技術なのか」を、最もよく示すテーマです。
なぜ、量子は暗号の脅威になるのか
前に学んだことを思い出しましょう。現代の暗号、とりわけ公開鍵暗号の安全性は、「ある種の計算が、現実的な時間では解けない」ことに、支えられていました。その代表が、巨大な数の素因数分解です。従来のコンピュータでは天文学的な時間がかかるから、暗号は安全——これが、前提でした。
ところが、量子コンピュータの理論研究は、衝撃的な事実を示しました。大規模な量子コンピュータなら、素因数分解を、桁違いに速く解ける手順(アルゴリズム)が、存在するのです。つまり——
- 現在広く使われている公開鍵暗号の一部は、十分に強力な量子コンピュータが実現すれば、破られる可能性がある
- それは、ネット取引、通信の秘密、デジタル署名——デジタル社会の信頼の土台に関わる
- しかも、「今のうちに暗号化された通信を保存しておき、将来、量子コンピュータで解読する」という懸念さえ、指摘されています。今は破れなくても、将来破られるなら、長期の秘密は今から危ういのです
まだ、その規模の量子コンピュータは実現していません。しかし、「いずれ来るかもしれない」だけで、備えを始める理由には十分です。リスク管理の考え方——影響が甚大なら、確率が不確かでも備える——が、ここで働いています。
備え——耐量子暗号への移行
脅威に対して、守りの側も、動いています。第一の備えが、耐量子暗号——量子コンピュータでも解読が難しいと考えられる、新しい数学にもとづく暗号方式への移行です。
- 素因数分解とは別の、量子コンピュータでも効率よく解く方法が知られていない数学的問題に、安全性の根拠を移す
- 国際的に、新方式の標準化が進められ、各国の機関や企業が、移行の準備を始めています
- 世界中のシステムの暗号を入れ替えるのは、長い年月のかかる大事業です。だからこそ、脅威が現実になる前から、移行が始まっているのです
これは、前に見た「完璧な安全はないが、備えでリスクを下げる」の、社会規模の実践です。静かに、しかし着実に、デジタル社会の土台の入れ替えが、進行しています。
もう一つの盾——量子暗号通信
第二の備えは、より根本的です。量子の性質そのものを、守りに使う——量子暗号通信です。
発想の鍵は、第1レッスンで見た、量子の性質にあります。観測すると、状態が変わる。この性質を通信に使うと、驚くべきことが可能になります。
- 量子の状態に、暗号の鍵の情報を乗せて送る
- もし、途中で盗聴者が観測(盗み見)すれば、量子の状態が変わってしまい、盗聴の痕跡が必ず残る
- つまり、盗聴を、原理的に検知できる通信
従来の暗号は、「解読に時間がかかるから安全」という、計算の困難さ頼みでした。量子暗号は、「盗み見ると、物理法則によって必ずバレる」という、自然法則そのものを盾にする発想です。研究開発と実証が各国で進められており、機密性の高い通信への応用が期待されています。奇妙な量子の性質が、破る力(量子コンピュータ)と、守る力(量子暗号)の両方を生む——この攻防の構図こそ、量子技術のドラマなのです。
ニュースで使う視点
耐量子暗号への移行、量子暗号通信の実証、暗号の安全性に関わるニュースに触れるときは、「量子は、現在の暗号の一部への将来の脅威であると同時に、新しい守りの技術でもある」という攻防の構図で読んでみてください。この視点は、量子技術がなぜ安全保障や国家戦略の話題になるのかを、根本から理解させてくれます。次の最終レッスンでは、量子技術の未来との付き合い方を考えます。