身近にある、最大の謎
言語学入門の最後は、ことばをめぐる、最大の謎の一つです。それは、あまりに身近で、ふだん誰も不思議に思わない現象——子どもが、ことばを覚えるということです。考えてみてください。子どもは、文法書も辞書も使わず、体系的な授業も受けずに、周囲のことばを聞くだけで、数年のうちに、母語を自在に操るようになります。前に見た、大人でも説明できないほど精巧な文法体系を、です。これは、いったい、どうやって可能になっているのでしょうか。この謎は、言語学だけでなく、心と脳の科学、そして「人間とは何か」という問いにも、つながっています。
教わらないのに、できるようになる
子どもの言語習得の、驚くべき点を、確認しましょう。
- 体系的に、教えられていない:親は、子どもに文法の授業をしません。「主語のあとに助詞をつけて……」などと教えなくても、子どもは話し始めます
- 数年で、習得する:生まれてから数年——まだ計算も読み書きもおぼつかない時期に——母語の基本的な体系を、身につけてしまいます
- 聞いたことのない文を、作れる:これが決定的です。子どもは、聞いた文をオウム返ししているのではありません。一度も聞いたことのない文を、正しく作り、理解できます。つまり、文の丸暗記ではなく、文を生み出す規則を、身につけているのです
限られた、雑多な入力(周囲の会話)から、無限の文を生み出せる規則の体系を、教わらずに獲得する——この能力は、論理や数学の学習と比べても、驚異的です。なぜ、人間の子どもだけが、これをできるのか。生まれつき、言語を獲得する特別な仕組みが備わっているのか、それとも、一般的な学習能力の産物なのか——これは、言語学と認知科学の、長く続く大論争であり、いまだ完全には解けていない謎なのです。
「言い間違い」は、天才の証拠
子どもの言語習得の仕組みを覗く、面白い窓があります。それは、子ども特有の「言い間違い」です。子どもは、大人が決してしない、独特の間違いをします。たとえば、不規則な活用をする動詞を、規則的なパターンで活用してしまう(「来た」と言うべきところを、規則にならって別の形にしてしまう、など)。
ここで、考えてみてください。その間違った形を、子どもは、どこで聞いたのでしょうか。大人は、そうは言いません。聞いたことがないなら、暗記のはずがない。つまり、この言い間違いは——
- 子どもが、ことばの規則(パターン)を、自分で見つけ出した証拠
- そして、その規則を、例外にまで過剰に適用してしまった跡
なのです。子どもは、聞こえてくることばの海から、小さな科学者のように、パターンを発見し、仮説を立て、使いながら修正していきます。「言い間違い」は、能力の欠如ではなく、規則を発見する知性が、フル回転している証拠なのです。この視点で子どものことばを聞くと、そのたどたどしい話しぶりが、驚くべき知的な営みに見えてきます。
ことばの謎は、人間の謎
このコースを締めくくるにあたり、言語習得の謎が指し示す、大きな展望を見ましょう。子どもの言語獲得は、人間とは何かという問いに、直結しています。
- 言語は、人間だけが持つ、複雑な記号の体系です。その獲得の仕組みを解くことは、人間の心の仕組みを解くことです
- 近年のAIによる言語処理の発展は、この問いに、新しい光を当てています。「大量のデータからパターンを学ぶ」AIと、「わずかな入力から体系を獲得する」子ども——その違いと共通点は、何なのか
- ことばの謎は、心と脳、学習、知性という、科学の最前線の問いと、つながっています
このコースでは、ことばを科学する姿勢、言語の変化、多様性、そして言語習得の謎を学びました。ことばは、あまりに身近で、当たり前すぎて、その驚異が見えにくいものです。しかし、科学の目で見れば、ことばは、人間の知性の最も深い謎を宿した、驚くべき現象です。毎日のなにげない会話の裏に、その驚異を感じられること——それが、言語学という教養の贈り物なのです。
ニュースで使う視点
子どもの言語発達、国語教育、AIと言語に関わるニュースに触れるときは、「人間の言語獲得は、まだ解き明かされていない驚異だ」という視点を思い出してみてください。ことばの謎への感度は、教育、AI、人間の知性をめぐるニュースを、より深く読む力になります。