数年前まで「令和の米騒動」で高騰していたコメが、いまは逆に「余りそうだ」と心配されています。それなのに、農林水産省の調査では20もの県が2026年産を増産する意向だといいます。余るのに、増やす。ちぐはぐに聞こえますが、ここには経済ニュースで何度も出会う一つの型がひそんでいます。
まず値段の話から。コメも需要と供給で価格が決まります。作る量が増えて供給が需要を上回れば、値は下がる。だから「20県が増産 → 生産が順調なら値下がり」という記事の見立ては、素直な理屈です。高すぎたコメの値が落ち着くのは、買う側にはうれしい話でもあります。
問題は、「余りそう」と分かっているのに、なぜ各県は増やすのか、です。ここで効くのが囚人のジレンマの見方です。個々の農家や県にとっては、「値が高いうちに、たくさん作って売る」のがいちばん合理的な選択に見えます。周りが作らないなら自分は得をするし、周りが作るなら自分だけ我慢しては損をする——どちらに転んでも「作る」が正解になってしまう。ところが全員がそう考えて増産すると、供給が膨らみ、価格が崩れ、結局みんなの手取りが減る。一人ひとりの正しい判断が、集まると全体を損なう。これが「みんなの合理」が招く罠です。
この「みんなの合理が全体を損なう」型が見えてくると、政策の難しさも読めてきます(ゲーム理論で世界を読む)。増産を放っておけば値崩れで農家が痛み、価格を無理に支えれば消費者や財政が負担する。どちらにも代償があり、「正解」は一つに決まりません。だから生産者への支援や作付けの調整をどう設計するかが、毎年のように議論になります。
持ち帰れる読み方はこうです。ある状況が「誰も望んでいないのに続いている」と感じたら、「各自が得をしようと動いた結果、全体で損をしていないか」と問うてみる。乱獲、値下げ合戦、渋滞——コメの増産と同じ構図が、まるで違う顔をして何度も現れます。今日の「余るのに増やす」も、その一例なのです。